こんにちは、みそらです。
現在はノマドのフリーランスWebデザイナーとして活動しています。
その傍ら、動物と地球環境を守るための事業の立ち上げや、ジャーナリングの書籍出版に向けた取り組みを始めています。
ワークライフバランスを維持しながら、今はこの3軸で生きています。
このブログではその様子をシェアしていきます!
唐突ですが、私の夢は、「コアラが幸せな未来を築く」ことです。
なんじゃそりゃ?という感じですが、私はコアラが大好きなんです(笑)
その詳細については、次の記事でお伝えします。
まずはこれを実現するための第一歩として、このブログを開設しました!
ここでは、私の日々のライフスタイルや気づき、心に残った出来事などを記録していきます。
細く長い道を、コツコツと歩んでいく様子を皆様にお届けできたらと思います。
今回ははじめの自己紹介として、私がフリーランスのデザイナーとして、ノマドで自由なライフスタイルを得ることができたこれまでの歩みについてお話します。
今でこそ、自分の好きなように物事を選択し、人生をクリエイトする生活を送っていますが、私の人生は全く平坦ではありませんでした。
特に10代が、辛かった。
挫折して、悩んで、劣等感に苛まれる日々・・・。
何度も挫けては立ち上がって、自分を見つめ続けてきました。
そのプロセスを赤裸々にお伝えします。
ほんっとーーに、恥の多い人生を送ってきました。
よくある起業家の、キラキラ成功物語ではないです。 それとは打って変わって、とても地味です(笑)
コツコツと亀の歩みを続けて、地面を這いつくばってきました。
そうして地に足をつけてゆっくり進んできたからこそ、ここまで倒れずに歩んでこれたと思っています。
もし私と同じような、内向的な “根性なし” さんがこの記事を読んで下さっていたら、とても嬉しいです。
・何を始めても続かない
・人と比べて、格段に遅れをとった人生を送っている
・人と比べる癖がなくならず、いつも劣等感に苛まれている
そんな私が、ゆっくりゆっくり進んできた物語です。
もしかしたらあなたも、これを見て、希望や輝きを見出してくれるかもしれません。
1. 内向的な子供時代
私は小さい頃から本が大好きな子供でした。
本を読んで、その世界に妄想を膨らませては絵を描いてばかりいました。
特にファンタジー冒険物語に惹かれて、大好きでした。
『はてしない物語』や『ナルニア国物語』などの世界にのめり込んでいました。
もちろんハリー・ポッターシリーズも。ムーミンとかもね。
他の子供たちが、休み時間に元気に運動場へ駆け出していくのを横目に、
私は教室の隅で本を読み、自由帳に絵を描いてばかりでした。
たまに運動場で遊んでも、竹馬や缶ポックリが楽しかった、そっち系の子です(笑)
ドッヂボールやケイドロは、いっっちばん無理なやつ。
唯一できる運動は、水泳でした。(陸上じゃなかったらいけるのかな??笑)
チームでするスポーツが心から苦手でした。
だって、明らかに “出来” に差があるんだもん。
一方で、なんでもうまくやれる、社交的な人たちに憧れもありました。
積極的にクラスの友達や周囲の大人と交流して、堂々と自分を表現できる子たちを陰ながら見て、
「私もあんなふうになれたらな」って思うこともよくありました。
今思い返すと、小学校生活には楽しい思い出はあまりないです。
この内気な性格は、子供の頃こそ大キライでした。
それでも急に性格を変える勇気もなかったので、ずっとそんなひねくれた性格のまま生きてました。
でも、この厄介な性格が、大人になってようやく私のポジティブな強みになってきました。
これまでコツコツと続けてきた、本を読んだり、日記を書いたり、想像で絵を描いたりすることが、私にとって大切な振り返りの習慣になっていました。
一人の世界に没頭して私自身を見つめることが、自己理解における強みになってきたのです。
そうして、コミュニケーションツールとしての「言語」を扱うことが得意になりました。
私は、私自身とのコミュニケーションをとれるようになりました。
それが私のアイデンティティの一部となりました。
それでも、社会は厳しいものです。
人と人とのコミュニケーションで社会を築いていくには、やっぱりどう考えたって外交的な性格の人が優位です。
中学、高校、と成長するにつれて、蓋をしていた自分の「苦手意識」がいつ爆発するか、私でもわからない日々を送っていました。
そう、
いきなりネタバレですが、高校で大噴火してしまったのです・・・!
2. 高校時代の挫折と苦悩
はい、先ほどのフリの通り、
高校生になった私は、この内向的な性格にすっっごい苦しめられることになりました。
私は子供の頃から赤面症で、人前に立つと顔が真っ赤になり、緊張で全身が固まってしまうことがありました。
したたる程の手汗もかきます。
小学生の頃からずっとありました。 慣れない男子や先生と話すとき、知らない大人と話すとき。
そんな自分が恥ずかしくて、キライでキライでたまりませんでした。
高校に入ってからも、その症状がずっとありました。
とある英語の授業。
教卓に立って発表することがありました。
その時、全身が熱くなり、顔が真っ赤になるのを感じました。
私は、いま、何をしている・・・?
どういう状況・・・?
そんなことも考えられないほどになり、
汗がダクダクで、周りが見えなくなって、
その瞬間、思考が停止し、過呼吸になってしまっていました。
うまく息ができなくて(多分)、
先生が保健室に運んでくれて(多分)、
その日は保健室で休むことになりましたが、
それ以降、この出来事が私にとっての強いトラウマとなって、学校に通うことがだんだん苦痛になっていきました。
過呼吸も身体の悪い癖になって、なりたくもないのに頻繁になってしまいました。
そんな自分が嫌で、自己否定すら無意識の癖になっていきました。
それでも、高校生活の中で友達には恵まれていました。
中学、高校と成長するに連れて、少しずつ外交的な性格にもなっていきました。
いわゆる「スクールカースト」では、高校では上の方にいたのだと思います。
体育祭では3年間、応援団を務めました。
夏休みを返上してチームで練習し、演舞やチアリーディングをしていました。
人前に立つのがこんなに苦手な私が、なぜ応援団をやったのか自分でもよくわかりません。
友達が誘ってくれたのが理由だけど、
内心、誰かに認められたいという気持ちがあったのかもしれません。
人前に立つことにやっぱり憧れはありました。
でも、応援団などの活動を通しても、私の赤面症や対人不安は消えることはありませんでした。
むしろ、人前に出るたびに自分の無力さを痛感し、徐々に自信を失っていったのです。
心の中では常に「自分は何かが違う」と感じていました。
みんなと違って、何かができない。
世界とは1枚、何か違う層にいるような、
ずっとそんな感覚がありました。
友達と馴染んではいるけど、なんか違う?
彼氏ができてそれなりに学校生活も楽しんでいるけど、なんか違う?
・・・拭えない違和感が私を覆い、
そして3年生の秋、私はついに学校に通えなくなり、不登校になりました。
地方の自称進学校で周りががむしゃらに受験勉強を頑張る中で、
私は何のために大学に行くのか、自分自身の目標が見えなくなっていました。
やろうとも思えないこと続けることへの虚無感が、さらに私を追い詰めていたのです。
燃え尽き症候群でした。
なんてタイミングで爆発したんだろう・・・。
輝いていたはずの高校生活からあっけなく引き離され、
何ヶ月も家に引きこもって、ただただ時間が過ぎていきました。
学校を休むために、診断書も提出し、
家にいました。
この数ヶ月が高校生の私にとってどれほど長かったか・・・
今思い出しても苦しくなります。
なんとか無事に、これまでの成績や内申点で留年することなく高校を卒業できましたが、
卒業式には参加せず、ひっそりと卒業証書を受け取って帰りました。
教室のないフロアの静かな廊下で、
Superflyさんの“My Best Of My Life”が遠くに聞こえていた情景を、
今でも鮮明に思い出せます。
みんな感動的で、楽しい卒業式の1日を送っているんだろうな・・・。
もう今さら顔は出せなくて、
不完全燃焼、切ない高校生活の幕が降りました。
その後、大学受験に挑戦することもできず、
何も出来なかった自分を、ずっと布団に引きこもって責め続けることしかできませんでした。
その後も実家に引きこもり、アルバイトをしては辞めてを繰り返し、人生に絶望していました。
18歳で転落した。
こんな情けない私に対して、何も言わない親の優しさも、当時は辛くて情けなくて、とても辛かったです。
SNSで、友達が楽しそうにキャンパスライフを送っている姿を見る度に、
自分の無力さと弱さを痛感し、さらに深い孤独感に苛まれていました。
途中まではうまくいっていたはずなのに、なんでこうなったんだろう・・・。
どこでみんなとは違うレールに落とされたんだろう・・・。
私は、自分を見つめることができる、
だからこそ、
己の弱さが露骨に見えてしまって、とても辛かったです。
3. 博物館での転機、“学”との繋がり
こんなどん底の生活の中で、20歳を迎える頃に転機が訪れました。
小学校の頃の友達が「博物館のバイトの求人があるよ」と教えてくれました。
興味はあったので面接を受けてみると、なんとあっさり採用されました。
こうして始まった博物館での仕事は、私にとって天職でした!
ようやく「自分の居場所」を見つけた感覚でした。
昔から昆虫など(の人とは違うちょっと変なもの)が好きだったし、何より学術的なことに触れることがとても楽しくて!
地球の歴史を感じられる自然史の展示物に囲まれながら、ディスプレイ製作やオリジナルグッズ製作にも携わって、
私は自分の出せる力を存分に発揮することができました。
これまで感じていた、“一層違うところにいる違和感” もなくなり、
その空間にしっかり立っていられる感覚、地に足ついた感覚でいられました。
そして、何よりも私にとって大きなポイントだったのは、博物館が営利目的ではない公共の施設であることです。
社会のため、環境のため、教育のために働くことに強い充足感がありました。
ここでの仕事を通して、私はようやく、自分が社会に貢献できている実感を得ることができました。
それでも、博物館での充実感を感じる一方で、学歴コンプレックスや劣等感はずっと拭えませんでした。
過去の友達たちが立派な大学を卒業して、社会人として就活していく中で、私は未だアルバイトとして働いていることに対する劣等感がずっと辛かったです。
そこで、私は22歳の時に、働きながら通信制の美術大学に入学しました。
順当に行けば、社会人1年目を迎える年です。
少しでも知識を得たい、そして何よりも「やりたいことを学びたい」という思いがありました。
学歴だって欲しかったです。
空間デザイン、インテリアデザインのコースで勉強しました。
通信制の大学でも、たまに対面授業を受ける必要があって、何度か憧れの東京キャンパスに行きました。
つかの間の大学生活を送っていました。
それでも、働きながら学ぶことの難しさに直面し、結局続けることができませんでした。
大金を出したのに、、、怠け心もありました。
バイトで頑張って稼いだのにな。
「どうせ私には何もできない」
この挫折も私にとって大きな打撃となりました。
またか・・・
私はやっぱり何も成し遂げられないのか、と自己嫌悪。
3年間在籍して、退学届を出しました。
そんな生ぬるい挫折を感じながらも、
博物館の仕事からは多くのことを学んで、経験して、充実した5年間でした。
アルバイトでも、ずっと続けていきたい仕事でした。
そして25歳、ついに憧れていた東京に移住しました。
キャンパスに通ったりで、少しずつ馴染もうとしていた憧れの東京。
学問もエンタメも、なんでもある東京。
ここで刺激をいっぱい受けたい!!!
こうして実家を出て、新しい生活を始めました。
25歳は遅いかもしれない、
けど、
まだ人生は取り戻せる・・・!
その思いを抱いての一念発起です。
最初はひとまず雇ってもらえたアパレルショップで働いていました。
大好きなブランドで働ける喜びはありました。
でも、高級エリアで働くことは私にとって「人前に出る」ことと同義だったみたいです。
もともとファッションは好きですし、やりがいはあったものの、どこか違和感を払えずにいました。
なんだか、あの違和感の再来・・・??
心を病む日も多く、長く続けられないかも、と思っていたところでした。
地元の博物館で出会った恐竜研究の大先生が、あるときご連絡をくださいました。
「東京のとある科学館で講演をするので、よろしければお越しくださいね。」と。
やった!!大好きな恐竜の講演!
そして尊敬する先生から、直々にご連絡いただけるなんて・・・!!
ウキウキでまいりました。
そして、その科学館のスタッフの皆様とのお食事にも、参加させていただきました。
これがきっかけで、なんとそこで働かせていただくことに・・・!!
こんな巡り合わせがあるのか・・・!と心から感謝です。
そしてここでも、館の運営に携わって、
社会に教育を普及し、いかに公共のビジネスで収益を上げていくか、という仕事にやりがいを感じました。
やっぱり私は、この業界が天職なんだなぁと、心から思えたのです。
4.新型コロナウイルスの流行
ようやく憧れの地・東京で、天職である公共の博物館施設の仕事に就いている、
そんな充実した私の生活にも影を落としたのが、記憶に新しい、あの新型コロナウイルスの流行でした。
世界を一変させ、誰もが絶望を感じたあの数年間・・・。
科学館もやむなく休館しましたが、幸いにも私の仕事がなくなることはありませんでした。
しかし、職員の中にはやる業務もなく、途方に暮れている人もいました。
何ヶ月も来館者が来ないまま、
展示物のメンテナンスをしたり、生き物の管理をしたり、売上表を見つめたり・・・。
何度も掃除を繰り返して、すでにピカピカの館内をまた掃除したり・・・。
ニュースやSNSを見ていても、仕事を失った人の悲痛な叫びばかりが報道され、暗い状況が続きました。
どれだけ良い学歴や職歴があっても、不測の事態は起きるものなのか・・・。
いつまでこのどんよりした世界が続いていくんだろう。
こんな状況で、こんな私に仕事があることは、当たり前ではないと思いました。
「会社の給与だけが収入源であることの危うさ」に強い危機感を覚えてました。
社会がどれだけ揺らごうが、自分自身で立てる力を持つことが必要だ、って痛感しました。
そして、そのために「自分の力で仕事を作りたい」と強く思うようになりました。
自分でお金を稼ぐ力をつけなければいけないと決意したのです。
今度こそ、やり切る。
今しかない。
そう覚悟を決めました。
5. 自分の力で仕事を作りたい
休日も迂闊に外出できない日々が続くそんなあるとき、
何気なくInstagramを見ていると、ノマドライフを楽しんでいる人の投稿が目につきました。
えっ、こんなひどい状況で、自由な暮らしを満喫している人がいる?
どういうこと・・・??
私はその自由気ままなライフスタイルに強い憧れを抱きました。
なんなら嫉妬でちょっとむかついてしまうくらい(笑)
しかし、現状の自分との違いに、ジリジリと焦りを感じたのも事実です。
ちょっと、本当に状況が、意味がわからない。
ノマドってなに・・・?
会社員じゃなく、自分でビジネスをするって、なに・・・?
今では師匠であり、先輩としても親交のできたその人のSNSやブログを、隈なく読みました。
どうやらその人は「情報発信ビジネス」で収益を得ているようです。
情報発信・・・ビジネス・・・??なんだそれ。
興味を持った私は、早速問い合わせました。
そしてあれよあれよという間に、ビジネススクールに大枚をはたいて入会していました(笑)
こう言うと、すっごいキレイに詐欺にかかったカモのようですが(笑)
そのスクールではしっかりビジネスを学ぶことができましたし、経験豊富な講師陣や実績のある先輩、熱意のある同期がいました。
この環境に入ったことが、私の人生を大きく変える転機となりました。
・ビジネスコンサルティングで、金額も教えてもらえないほど稼いでいる人
・海外輸入物販で毎月数百万円の売上がある人
・学生でも起業して、塾講師として年収2000万円近く稼いでいる人
などの猛者がごろごろいました。
そのスクールでは、SNSやブログなどで自分の考えや活動を発信する方法を学びました。
それが収益になる、「情報発信ビジネス」らしいです。
ふーん、やってみるか。
私も、実際にアカウントを立ち上げて、SNSで発信し、YouTubeで動画を投稿し始めました。
仕事しながら毎日数時間かけて猛勉強して、
実践して、
無料モニターを獲得して、いよいよ収益化を始めるぞ・・・!
というタイミングで・・・
ポッキリ心が折れました。
はぁー、
やっぱり私は表に出ること、人目に晒されることがどうしても苦手だったのです。
長続きしませんでした。
私の内向的な性格が、再び壁として立ちはだかりました。
しかし、諦めるにはまだ早いです。
なんなら、諦めてなかったです。
なけなしの貯金を一括で出してスクールに入ったのです!
成果が出なければ意味がありません。
公共の仕事で、低賃金で生きてきてんねん!!
まじでもう貯金もないんだよ!!!
東京一人暮らし、のたれ死んでは全部水の泡!!
そんなん絶対いやや!!!!!!
もう絶対落ちたくない!!
・・・そして、ふと気がついたこと。
私は表舞台に立つことが苦手でも、裏方として人の役に立つことはできるということでした。
どうやら情報発信をしている人の中には、デザインに悩む人が多いことを知りました。
それこそ、スクールの中にいる人やSNSで発信している人を見て、
「これなら私でも価値提供できるぞ・・・!?」と思ったのです。
こうして私はデザイナーとして、裏方からサポートする立場にシフトしました。
すると、驚くほど仕事が舞い込むようになり、
方針を切り替えて1ヶ月以内に初めての仕事をいただきました。
なんならあっけないくらい。
最初は単発5000円のお仕事でした。
この5000円が、どれほど嬉しかったことか・・・。
この成功体験は、私に初めての自信と希望を与えてくれました。
うわぁ、こんなことってあるんだ。
この私の、初めての、自分の仕事。
これが次のステップを踏み出す原動力となりました。
今でもそのお客様は私に継続的に仕事をくださっています。
ビジネスって本当に、人と人とのご縁です。
そしてこの間、私はずっと日報を書き続けていました。
スクールのチャット内に、みんなに迷惑なくらい長文の、
永遠にスクロールしないといけないんじゃないか(笑)ってくらい、長ーーーーい日報を毎日書き続けていました。
日報の内容は、自由気まま。
その日学んだことの要約や、実践したことのログ、気づいたことの所感、色々です。
正直、スクールとして不要な内容も大半だったと思いますが、
みんなすごく前向きでいい人たちで、
私の日報で熱意や刺激を受けてくれていたみたいです。
なるほど、
どうやら私は、抽象的な物事を、ビジュアライズしたり、逆に言語化したり、
そういった落とし込みが自然にできるようでした。
これは、言われて気づいた私の特別な「できること」でした。
6. デザイナーとしての成長と挑戦
こうしてデザイナーとしての活動を始めたばかりの頃は、副業としてコツコツと仕事をこなしていました。
毎月の収入は3〜5万円と少額でしたし、なんなら0円の月もありました。
しかしそれでも、私は自分の力でビジネスを生み出すことができたのです。
自分の力でお金を稼ぐ喜びと達成感は、何事にも変えられない貴重な経験でした。
(というか、社会人の副業3万円って十分すごいと思うんです。)
しかし、現実は甘くありません。将来に対する不安は常にありました。
東京での生活費は高く、フリーランスとして生きていくためには、もっと収入を安定させる必要があります。
こんなに不安定で低収入な状態で、独立なんてもってのほかです。
まだ楽しく続けていた科学館の仕事は充実していましたが、(念のための注釈ですが、公務員ではないので副業できますし、会社としてもOKです!低賃金なのでw)
時間と場所に縛られない生活を夢見ていた私は、すぐにでも仕事を辞めたいと思い始めました。
そこで、私はデザイナーとしての力をさらに充実させるべく、自己研鑽を続けました。
新しいスキルを学んで、クライアントとの信頼関係を築いて、
少しずつですが収入を増やしていきました。
経営者や個人事業主たちの勉強会、交流会などには積極的に参加しました。
せっかく東京にいるのです、地の利を生かさんでどうする。
内向的だった私も、このときの覚悟ばかりは外交的になれるようです。
そうか、自分の人生に対する “覚悟” だったんだ。
ようやく気づくことができました。
そしてついに科学館の仕事を5年半で辞めました!
ミュージアムショップの店長とか、アテンダントとか、運営とか、色々やらせてもらってました。
天職だったので、なんだかなんでもスラスラできて、
お台場本社の部長賞もいただいたりとかしてました。
すごく充実していた5年半。
大好きな環境が名残惜しくて後ろ髪引かれながらも、
後任スタッフへの引き継ぎもして、みんなから新たな旅立ちも祝っていただき、円満に退職しました。
この環境には本当に感謝していて、今でもたまに遊びに行っています!
そして、独立への次のステップとして、スタートアップ企業で1年間働きました。
このスタートアップの社長さんは、ここまでビジネスしてきた中で知り合った方です。
やっぱり、ビジネスは人と人との縁。
ありがたくここで仕事をいただいて、
起業のノウハウを吸収し、経営者たちと交流し、独立に向けて加速的に動き出しました。
スタートアップで過ごす月日は、公共の環境とは全く違う、スピード感が10倍くらいに感じました。
「自分の給料は自分で稼げ」
民間では当たり前のそんな価値観も、公的機関に10年いた私はようやく始めて実感しました。
カルチャーショックでしたww
なんて生ぬるいんだ私は。
“Done is better than perfect.”
“Quick and dirty.”
いや、そうだよな。
そうなんだよな。
私って、自分への理想が高くて、ずっと完璧主義だったんだ。
潔癖だったんだ。
だから、失敗が怖くて、何も踏み出せない子供だったんだ。
これに気づいたのは、30歳を過ぎていました。
スタートアップで1年しごかれ、副業デザイナーもコツコツ続け、
そして、ついに私は会社員生活を辞めて、フリーランスデザイナーとして独立する決意を固めました。
独立してからは、仕事の波に乗ることができ、少しずつ収入も安定していきました。
私は一時的に大きく稼ぐではなく、コツコツ安定的に稼ぐことを重視しています。
今でも、収入の天井を上げていくフリーランスとしての挑戦は続いていますが、
自分の力で生計を立てているという実感が、私の人生に大きな充足感を与えています。
7. 理想のライフスタイルの実現
私が目指していたのは、時間と場所に縛られない自由なライフスタイルです。
そして、好きで、得意な仕事を、自分の意志で選べる環境です。
フリーランスとしての活動が軌道に乗ったことで、私はその理想を実現することができてきました。
地元と東京の間を自由に行き来し、
好きな時に海外旅行をして、
好きな時間に寝て起きて、
まさに理想の生活を送っています。
仕事においても、得意なことや好きなことを選んで取り組むことができる環境にあります。
自由に選択肢を持ちながら、私のデザインや活動がクライアントに価値を提供していることに毎日喜びを感じています。
それでも、大変なことも当然多いです。
会社員とは違うので、15時間くらい仕事をする日や、休日がない時期だってあります。
自分のための作業なら、毎日何時間かけても1円にもならない時期もあります。
寝る時と食べる時以外、ずーっとダラダラと仕事が続きます。
旅行してても、仕事の連絡が来たら頭のスイッチを切り替えます。
そしてフリーランスで時間と場所が自由とはいえ、クライアントの成果を出すために、
仕事に対して相当な熱量と会社員マインドで向き合わなければなりません。
クライアントワークをしているうちは、結局は会社員と同じなのです。
それでも、自分の好きな時間と場所で仕事ができるという点で、私はこの仕事を選んで本当によかったと思っています。
まだやれること、やってないこともいっぱいあります。
クライアントワークが収入の大半なので、突然仕事がなくなることも起こり得ます。
だから、お金の発生するポイントを他社じゃなくて自分のところに置く必要があります。
今はそういったことの準備中。
私もまだまだ発展途上です!
このように上京して、天職の仕事をして、自分でビジネスを築いて・・・
この間、人間関係も大きく変わりました。
「友達」と呼びたい人は、ただのお茶友ではなく、仕事仲間だったり、向上心を持って生きている人だったり、自分の軸や考え方がはっきりある人たちになってきました。
周りの人も、立派な企業や役職で働いていたり、起業していたり、芸術活動をしていたり。
たまに疲労感が見えながらも(笑)、みんな生き生き輝いています。
私ってまだまだちっぽけだな、努力の余地はいっぱいあるな、って毎日思います。
しかし、そんな強い目標があるわけではなく、日々を平和に大切に生きている人たちも友達です。
なんなら、私の肉親はみんなそんな人たち。
みんながみんな、バリバリ生きている必要はないって思ってます。
コアラを見ていたら、そう思うね。
私の母なんて、「なーんもすることない。ひま!」って幸せそうに言って、畳で伸び〜〜してゴロゴロしてました。
これぞ理想の生活です!私もそこまでいきたい。
(一応母の尊厳を守るために、常に暇してるわけではない事はお伝えしておきます!)
また、人間関係と言えば、恋愛もひとつ。
20代後半から30代にかけて、恋愛においても多くの失敗や、悲しい出来事も経験しました。
もともと恋愛的な思考が苦手なので、変に淡々としてしまったり、逆に盲信的に依存してしまうこともありました。
恋愛って、本当に特殊な感情。
難しいですよね。
でもそんな自分のことも、ジャーナリングでしっかりと見つめることで、少しずつ人間関係を円滑にできるようにもなりました。
ロジカルに恋愛するので、まったく可愛げがないんですけど(笑)
恋愛に対してもビジネスマインドで向き合ったので、その経験をもとに婚活コンサルもできそうです(笑)
そして今では、良きパートナーと出会い、楽しく暮らしています。
まるで親友のように仲の良い夫婦関係です。
休みが合う日は一緒に出かけたり、近所のスーパーに買い物に行ったり、とても平和な日常を送っています。
夫はJリーグのサポーターなので、サッカーを見に、一緒に遠征旅行もちょくちょくしてます。(私もJ1の知識がついてきましたw)
そして、私のコアラ遠征にも着いてきてくれます。(彼も全国のコアラの顔と名前も覚えてきてくれています(笑))
また二人で海外旅行も頻繁にしていて、2024年はスペイン、インドネシアに行きました。
年内にオーストラリアやフィリピンにも行く予定です。
しかし夫との関係も、重要な人間関係のひとつです。
うまくいかない日もあるし、なんならケンカは多い方です(笑)
近い存在ほど、ダレてはいけない。
科学館の長老ボスに結婚報告をしたときに、こう言われました。
「結婚は糸電話のような適度な緊張感が必要です。
緩むと伝わらず、引っ張りすぎると切れます。」
至極名言、肝に銘じます。
お互いに意識して、相手を思いやりながら自分の意見を提案しますし、
自己成長を続けることで、パートナーシップも充実したものになりました。
あぁ、内気だったあの頃の私はどこへやら。
今でも内向的であることに変わりはありませんが、
私自身の生き方に、自信と責任を持てるようになったので、どんなことにも動じなくなりました。
気後れすることなく、堂々と人と接することができるようになったのです!
やっぱり、“覚悟”だったんですね。
「何のために物事に取り組んでいるのか」という目的意識がしっかりしていれば、病むこともありません。
自分の理想の人生ゴールに向かって、一歩一歩進んでいく感覚が、良い快感となってきます。
これについても、別記事で書こうかな。
大きな気づきがありました。
8. これからの展望
私はこれから、大好きなコアラを守るための新しい事業を始めます。
具体的には別の機会にお話します。
なんならこのブログは、その事業を進めていく私の備忘録でもあるので、腰を据えてしっかり発信していきます。
コアラのグッズ製作・販売や、コアラ好きの「コアラー」と呼ばれる人たちのコミュニティ運営、そしてイベントもやりたいなぁと!
コアラーが喜び、その結果コアラが喜ぶ、そして地球に優しい循環を作っていくことを目指して、今は事業計画書を鋭意制作中です。
この活動を通して、コアラと地球の未来を守ることが、私の大きな目標です。
そして、私の人生を救ってくれたジャーナリングに関する書籍も出版したいのです。
これについても、このブログで合わせて発信していこうと思っています。
記事を書きためていくので、皆さんぜひ見てください。
日記やジャーナリングに関する書籍を毎年1冊ずつ出版し、10年間継続していくことが私の夢です。
日記の効果や効用を伝え、読者に自己理解や自己成長の手助けをしたいと考えています。
不登校になった18歳から、15年近く続けてきた日記。
ぐちゃぐちゃの感情を書き殴ったり、理想の未来を妄想したり・・・。
もちろん書かない時期もありましたが、
だからこそ「日記を書くことでいかに人生が変化するか」を身をもって知ることもできました。
これを、私のように低迷している人がいたら、ぜひお伝えしたいのです。
また、デザイナーとしての活動も、プレイヤーとしてまだまだ精力的に行っていく予定です!
これまでのスキルを生かしながら、新しい技術もたくさん取り入れていきたいですね。
今は生成AIも絶賛勉強中です。
AIを使うことでなんでもできる時代。
だからこそ使いこなせる側でいないといけない。
でも、AIを使わないと何もできない人間にもなりたくないのです。
だからこそ、この記事も自分の頭と手をフルで動かして書いてますし、
デザインだって基礎的な知識と技術が己になくてはいけない。
そう思って、ど根性で生きてます!w
本来は私、アナログ人間ですから。
ざっとこんな感じでございます。
コアラ、ジャーナリング、デザイン、この3軸と、
プライベートも大切に、つまり4軸で生きてます。
これらは発信メディアを分けてもいいと思いますが、それぞれの専用サイトは別途設けようと思います。
このブログは、私のライフスタイル全てをさらけ出すメディアにします!
私は、公共、なんなら地球環境すべてに貢献したい。
だけど自分の手の及ぶ範囲は限られている、
だからこそ、大好きな「コアラ」をまずは守ろうじゃないか。
そう決意しました。
そのためにはコアラが好きな人たちが喜んでもらえる事業を作って、
そこで収益が発生して、
その収益をコアラのために使いたい。
そんな優しい循環を目指しています。
自分のごはんを食べるお金は、デザインとジャーナリングで稼ぎます!
それくらいの勢いです。
これから社会貢献型クリエイターとして、環境にやさしいクリエイティブを提唱し続けます。
好きなことを仕事にし、地球を守るクリエイションを実現するために、これからも歩み続けます。
そして、
私が叶えたい理想の生活は、全ての生き物が幸せに暮らせる未来を創り出すこと。
私はそのために、自分のスキルと情熱を注ぎ続けます。
共感してくださる方がいらっしゃれば嬉しいです。
一緒にこの素晴らしい未来を創り上げていきましょう!
ここまで読んでくださった方に、本当に感謝します。
この記事、13000字あります(笑)
私の人生をこんなに読んでくれて、ほんとうにありがとう!!
カメのようにノロマで内向的な私が、起業してコアラを救いたい物語は、
今ここからスタートです!
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